
インターナショナル幼稚園編 STORY 01
英語が得意だったから、インターナショナル幼稚園を選んだわけではありません。
むしろ当時の私は、英語力にまったく自信がありませんでした。それでも、幼い頃から夢だった「幼稚園の先生」になるために就職活動を続け、最後にたどり着いたのが、開園を目前に控えたインターナショナル幼稚園だったのです。
ところが、念願だった幼稚園教諭としての第一歩は、想像していたものとはまるで違いました。
幼児教育を専門的に学んだ日本人スタッフは、社会人1年目の私ひとり。外国人の先生たちとは言葉が十分に通じず、開園準備から保育、事務まで、次々に仕事が押し寄せます。
のちに20年以上、英語教育に携わることになる私のキャリアは、そんな混乱のなかから始まりました。
この物語は30年以上前の出来事をもとにしています。社会情勢、幼児教育を取り巻く環境、法律や制度、働き方などは現在とは大きく異なります。当時の体験と記憶をもとにした物語としてお読みください。
シリーズ全体の背景を先に知りたい方は、英検2級から20年以上英語教育に携わるまでのキャリアをご覧ください。
理事長や外国人先生など、この先何度も登場する人物については、インターナショナル幼稚園編の登場人物紹介にまとめています。
念願の就職先は、開園前のインターナショナル幼稚園だった
幼い頃からの夢は、幼稚園の先生になることでした。
その夢を叶えるために初等教育を学び、いよいよ迎えた就職活動。しかし、思っていたようには進みません。
幼稚園教諭を目指しても、なかなか就職先が決まらない
私が就職活動をしていたのは1980年代。当時の私の周囲では公立幼稚園の求人はほとんど見つからず、幼稚園教諭を目指すなら私立幼稚園を探すしかありませんでした。
ところが、応募してもなかなか採用には至りません。
友人たちの就職先が次々と決まっていくなか、私だけが取り残されていくようで、焦りは募るばかりでした。
「これでダメだったら、幼稚園以外の仕事も考えよう」
そう覚悟して最後に受験したのが、翌春に開園予定だったインターナショナル幼稚園です。
求人票に書かれていたのは「幼稚園教諭」という職種名程度。どのような園なのか、実際に何をするのか、詳しいことはほとんどわかりませんでした。
それでも私にとっては、幼稚園の先生になる夢をつなぐ最後のチャンスでした。
英語を使う職場なのに、英語力に自信はなかった
採用枠は1名。受験者は20名ほどいたと記憶しています。
試験は一般教養と面接。一般教養には英語の問題も多く含まれていました。
私は初等教育学科で学んでおり、英語はあくまで教養科目として勉強した程度です。英語を専門的に学んできたわけではありません。
当然、試験にも自信はありませんでした。
ところが、一般教養と集団面接を終えると、なぜか最終選考まで残っていました。
最後は、田村理事長とアダム園長との個別面接です。
今となっては、何を聞かれ、どう答えたのかほとんど覚えていません。ただ、約1週間後に届いたのは、待ちに待った採用通知でした。
「英語が得意だから採用された」という感覚は、当時の私にはありませんでした。英語力に自信がないまま、インターナショナル幼稚園で働くことになったのです。
年内になんとか就職が決まり、ほっとして新年を迎えました。
しかし、「幼稚園の先生になれる」という喜びよりも、「いったいどんな仕事が待っているのだろう」という不安のほうが大きかったことを覚えています。
開園計画は早くも変更。想定していなかった2歳児クラスも
採用時に聞いていた計画では、年少・年中・年長の3クラスをつくる予定でした。
ところが、実際に園児募集が始まってみると、想定どおりには集まりません。
年中児や年長児の場合、それまで通っていた幼稚園から転園する必要があります。新しくできる園へ途中から移ることに、保護者も不安があったのでしょう。
年長児の入園希望者は、わずか1名。最終的に年中児と年長児は合同クラスになりました。
そして園児数を確保するため、新たに2歳児も受け入れることになります。
こうして開園前から、当初聞いていた計画とは違うクラス編成になっていきました。
当時の施設区分や幼児教育に関する制度は現在とは異なります。本記事では、当時の体験と認識をもとに物語を構成しています。
まだ保育は始まっていません。
それなのに、すでに「聞いていた話と違う」という出来事が起き始めていました。
開園前から取材依頼が相次ぐインターナショナル幼稚園
私の勤務が始まったのは2月です。
「研修」と聞いていましたが、実際には4月の開園に向けた準備が仕事の中心でした。
教材を選ぶ。入園予定者へ連絡する。教室を整理する。掲示物をつくる。必要な備品をそろえる。
新しい幼稚園ですから、当然ながら前年の資料も、先輩が残した手順書もありません。
何もないところから、すべてをつくる。
社会人になったばかりの私にとって、それだけでも十分すぎるほど大変な仕事でした。
注目される一方で、肝心の外国人先生はまだ来日していない
採用されてから知ったのですが、この園は当時、地域では珍しいインターナショナル幼稚園でした。
そのため開園前からメディアの関心も高く、テレビ、ラジオ、新聞などから取材の依頼が次々と入ってきました。
今でいうところの広報活動を、理事長が積極的に行っていたのだと思います。
取材する側が興味を持っていたのは、やはり外国人の先生でした。
外国人の先生が、どのように日本の子どもたちと接し、どんな保育をするのか。それ自体が珍しかったのでしょう。
ところが3月に入っても、外国人先生はまだ誰ひとり来日していません。
外国人先生を取材したいという依頼が来ているのに、取材対象となる本人がいない。
そんな状況のなか、なぜか私が取材対応に時間を取られていました。
外国人先生との初対面で、不安はさらに大きくなった
外国人先生が全員そろい、ようやく顔合わせができたのは、3月も半ばを過ぎてからでした。
ヨーロッパ出身のラファエル先生、通称ラフィは、別の業界で働いていた経験はあるものの、幼児教育は未経験。
アメリカ出身のエリザベス先生、通称ベスは、母国で3年間幼稚園教諭を経験していました。しかし、日本語は話せません。
アフリカ出身のアントニオ先生、通称トニーにも指導経験はありましたが、幼児教育の経験はありません。日本への留学経験があり、日常会話程度の日本語はできるとのことでした。
私はといえば、幼児教育を専門に学んできたものの、社会人1年目。実習経験があるだけで、実際の園を運営したことなど当然ありません。
しかも、自分の英語力にはまったく自信がありませんでした。
一緒に保育をするなら、子どもの様子、翌日の予定、教材、保護者への対応、行事、トラブルなど、細かな情報を毎日共有しなければなりません。
それなのに、全員が十分に意思疎通できる共通言語がないのです。
「このメンバーで、本当に4月から幼稚園を始められるのだろうか」
顔合わせを終えて安心するどころか、私の不安はさらに大きくなりました。
私は3クラスの副担任と事務を兼任することに
その後、クラス編成と役割分担が発表されました。
発表を聞いた瞬間、頭の中はパニックでした。
私は唯一の日本人教諭です。
3つのクラスをフォローしながら、事務仕事まで担当する。
社会人として働いた経験すらない自分に、本当にそんなことができるのか。
辞退したほうがいいのではないかと考えたのも、一度や二度ではありません。
入園式まであとわずか。それでも準備は終わらない
顔合わせはできたものの、外国人先生たちが本格的に出勤するのは3月末からでした。
それまで開園準備を進める中心メンバーは、理事長夫人の百合さんと私の2人です。
園バスの運転手である坂田さんも「何か手伝おうか」と声をかけてくれました。
ありがたい申し出です。
ただ、私自身が仕事を整理できていないため、何をお願いすればよいのかさえわかりません。
入園者名簿をつくり、式次第を作成し、配布物を準備する。教室や靴箱には子どもの名前を貼り、ホールや玄関も入園式らしく飾りつけなければなりません。
テーブルに一人ひとりの名前を貼ったり、教室を子どもたちが喜ぶ雰囲気に整えたり。
細かな作業は次から次へと出てきました。
結局、その多くを自分で抱えることになります。
保育について話し合う時間さえないまま、開園前日を迎えた
ときどき外国人先生が園へやって来ても、まだ仕事として本格的に参加する段階ではありません。
教室を見回しながら「Wow!」と声を上げる先生たちを横目に、私はひたすら準備を続けていました。
本来なら、開園前に話し合っておかなければならないことが山ほどあります。
けれど、目の前の入園式を準備するだけで精いっぱい。
肝心の保育について十分に話し合えないまま、時間だけが過ぎていきました。
そして、ついに入園式前日。
幼い頃から憧れていた幼稚園の先生になれるというのに、胸の中にあったのは期待より不安でした。
「明日から、本当に大丈夫なのだろうか」
その答えを知る間もなく、インターナショナル幼稚園は開園の日を迎えます。
新卒1年目の私を待っていたのは「先生」だけではない仕事だった
振り返れば、この時点ですでに、その後の3年間を象徴するような状況がそろっていました。
経験のない仕事。言葉の壁。決まっていない役割。次々と変わる予定。そして、誰かがやらなければ前へ進まない仕事。
2週間ほどの実習と学校で学んだ知識しかない私には、あまりにも大きな環境でした。
このあと私は、自分でも想像していなかったほど多くの問題に直面します。
頑張りすぎた結果、体調を崩し、3年でこの幼稚園を退職することになります。
それでも、この3年間がなければ、その後20年以上にわたって英語教育に関わる自分もいなかったと思います。
忍耐力、対応力、そして相手と何とか意思疎通しようとするコミュニケーション力。
当時はただ必死だった経験が、ずっとあとになって、自分の仕事を支える力になっていきました。
英語力に自信のなかった私の英語教育キャリアは、「十分な準備ができてから」始まったわけではありません。わからないことだらけの職場で、目の前の問題に一つずつ向き合うところから始まりました。
次回、いよいよインターナショナル幼稚園が開園
なんとか入園式の準備を終え、いよいよ園児たちを迎えます。
しかし、本当の混乱はここからでした。
日本人教諭は私ひとり。外国人先生との仕事に対する考え方の違いも、少しずつ表面化していきます。
次回は、入園式を終えて実際の保育が始まったインターナショナル幼稚園で、私たちが最初に直面した問題をお話しします。

「英検2級の実力しかない私が、20年以上英語教育に携わってきた話」は、主人公・高山杏の体験をもとに構成したフィクションです。人物名や設定などには創作を含み、実在の人物・団体とは関係ありません。
