飲食店の成功は失敗の裏返し!! ビジネス掌小説「成功は1℃先にある」

仕事のスキルアップ

はじまり

CASE1

内間 政則(仮名)

年齢53歳

飲食チェーン店経営

創業時の目標であった5店舗目の出店を達成し、順風満帆の人生を歩んでいた内間政則。しかし、帰宅途中にひき逃げに遭い、右手親指を欠損。事業の縮小も余儀なくされ、生きる気力を失ってしまう。その内間に絶望から這い上がる決意をもたらしたのは、沸騰するお湯だった。

事故そして親指の移植

 内間政則(うちま まさのり)は、女手ひとつで育ててくれた母親に楽をさせてやりたくて、高校卒業後すぐに飲食業界に就職した。「料理学校に通えない自分は、人の倍は働かなければいけない」。そう考えた内間は、寝る間も惜しんで修行に励んだ。そして、23歳のときに、念願の独立を果たす。5店舗の展開を目標に掲げて、その後もひたむきに仕事に打ち込んだ。

 目標は、15年で達成した。15年の間に、内間は結婚し、娘も生まれた。その娘は今年、小学生になる。母親も依然、健在だ。もうすぐ還暦を迎えるが、最近スイミングクラブに通いだしたという。仕送りするたびにくれるお礼のメールも、今だに欠かさない。それどころか、絵文字まで使いこなすようになっている。

 なんの不満もない人生だと、内間は思う。しかし、心はどこか満たされていなかった。というより、いつからか不安のようなものが絶えず、心の隅に根付いているのを感じていた

「疲れているのかもしれないな」と、内間はつぶやいた。5店舗目の出店が終わると、休む間もなく6店舗目、7店舗目の出店計画が動き出していた。

 現場を外れて経営に専念すれば、多少は仕事も楽になると思っていたが、大きな間違いだった。最後に終電に間に合ったのはいつだったか……。そんなことを考えながらトボトボ歩いていた、その時である。パッと背後に強烈な明かりを感じた瞬間、有無を言わせない力で体が引きちぎられた。

 次に内間が見たものは、白い天井、続いて自分の体から伸びる何本ものチューブ。そして最後に、目に涙をためる家族の顔だった。あとで、自分は丸一週間、昏睡状態にあったと知った。

 麻酔の影響で意識がふらつく中、警察からひき逃げにあったのだと聞かされた。深夜帯で目撃者もなく、犯人はまだ捕まっていないと言う。が、その事実より、内間に衝撃を与えたのは、医師の言葉であった。神経がやられていないのが不幸中の幸いだったと前置きした上で、「骨折箇所は全身で二十数箇所、右半身、特に右腕の損傷が激しく、右手の親指は欠損している」と医師は言った。

「親指が失くなった、ですって?」

 麻酔のため、今まで気がつかなかった。右手を確かめてみて、内間はアッと息を飲んだ。

「まあ、あまり心配なさらずに」

 励ますつもりなのか、医師が笑顔を浮かべる。「内間さんの場合、右足の親指が無事ですからね。そこから指を移植すれば、元通りに手が使えますよ。なに、珍しいことじゃありません。指を失くした大工さんなんかがよくやる方法ですから。手術の上手いドクターを紹介しましょう」

そうは言っても、手と足では別物でないか。

 気落ちする内間を力づけたのは、母親だった。

「生きてさえくれていたら、それでいい」

 手を握ってくれた母親のぬくもりに、内間は救われた。そして、紹介された医師のもとで移植手術を受けた。

 だが、内間を襲う本当の絶望は、このあとに待っていた。

あとたった1℃を、諦めるのか?

 退院までに半年、車椅子や杖を使わずに歩けるようになるまで、さらに半年を要した。

 その1年の間、5店舗すべてを維持することはできなかった。残ったのは1号店のみ。従業員も5分の1に減った。あれだけ勢いのあった会社でも、経営者という旗振り役を失えばこうも脆いのかと知った。

 が、ショックだったのは人が離れていったことよりも、自分自身に対してであった。

 あるとき、従業員のひとりが気を利かせてお茶を入れてくれたことがあった。せめて片付けは自分で、と思ったのだが、手に力が入らず、茶碗を割ってしまった。音を聞いて駆けつけた従業員が、破片を掃除しながら、

「社長は何もしないでください」と言った。

 決して悪気があったわけではない。むしろ、まだリハビリ途上の身を思いやってのことだろう。しかし、その言葉は内間の胸をグサリと刺した。以来、自分の無能感にさいなまれ、電話が鳴っても体が硬直したように動かなくなった

 箸も持てない。下着も自分ひとりでは履けない。……自分をこんな体にしたのは誰だ! と内間は叫びたかった。リハビリ中も、なぜ自分がこんなひどい思いをしなければいけないのかと、神様を呪いさえもした。

 自然と、内間はふさぎがちになった。それどころか、楽しそうな人を見ると腹が立った。学校の友だちと遊ぶ娘に、「うるさい!」とつい怒鳴ってしまったときは、「このままじゃいけない」とさすがに自覚したが、リハビリの効果もなかなか実感できず、いわば内間は、出口の見えないトンネルをさまよっている状況だった。

 そんな内間を見かねて、少しでも自信をつけてもらおうと考えたのか、家事を手伝うようにと妻が言ってくるようになった。手伝いと言っても、「鍋でお湯を沸かす」といった簡単なことである。

 「子どもよりも役立たずだな」と、コンロの前でぼんやりしていると、いつの間にか水が沸騰しきっていて、慌てて火を消した。すると、あれだけブクブクと沸き立っていた泡が、一瞬にして鎮まった。もう一度、着火してみると、鎮まっていた水面に、ボコッボコッとすぐに泡が立ってくる。

 その当たり前の現象を、内間は食い入るように見つめ続けた。

「水は100℃になった瞬間、沸騰する。その事実を俺は知っているけれど、この水自身は知らないに違いない。いつ自分が沸騰するか知らないまま、じっと火にかけられているのだ。もしもこの水が、99℃になったときに、『自分は沸騰できない』と諦めてしまえば、どうだろうか。劇的な変化を迎えるその時が、目の前まで迫っているのに、それを知らず諦めてしまったら、どうだろうか……」

 出口が見えない状況の中、自暴自棄になっていた内間の心に、一筋の光が射した瞬間だった。

 また、内間はこうも考えた。

 嵐から逃げようとすれば、嵐は追ってくる。嵐を切り抜けるには、その中に飛び込むことが大事なのではないか。

 内間は自分を変えるために、新たな目標を持つことにした。

 普通なら、会社の再建を掲げるところである。しかし、このときの内間は嵐の中に飛び込む覚悟があった。あえて、自分が最も嫌だと思うことをあえて目標にしようと考えた。

 そこで考えた目標が、「人と握手をすること」だった。指を移植して以来、右手は人前でもポケットに入れておくことが癖になっていた。しかし、逃げてばかりではいけないと内間は自らを奮い立たせたのだ。かつて病室で励ましてくれたときの、母親のぬくもりも脳裏にあった。

言葉には波動がある

「心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」

 これはアメリカの哲学者、心理学者であるウィリアム・ジェームスの言葉である。心や行動、習慣、人格という自分の内的なものを変えれば運命、つまり自分の周りまで変化するということだ。

 最初の変化は、家庭で起きた。ひき逃げにあって以来、笑顔の少なかった妻や娘が(内間本人の責任も大いにあるが)、嘘のように明るくなったのだ。

 帰宅時に「ただいま!」と朗らかに言うと、「パパ、おかえり!」と娘が笑顔で駆け寄ってくる。

 その娘を抱いてあげられるようになるまでは、まだリハビリが必要だった。しかし、内間の心はみるみる元気になっていった。

元気は交換できるんだ。そして、交換することで、お互いにもっと元気になれるんだ

 娘から教わったこの気づきを、内間はさっそく会社でも実践に移した。

「お疲れさまです」と普段何気なく使っていた挨拶を、「お元気さまです」に変えたのだ。最初は戸惑っていた従業員も、「お元気さまです」と言うと相手が笑顔になるのを知って、徐々に使用するようになっていった。社長が入院して以来、暗かった社内の雰囲気が、みるみる活気を取り戻していったのは言うまでもない。

 言葉には波動がある。その波動は、人を行動に移させる。

 ある日、従業員が勢揃いして、内間のもとを訪ねた。そして、この先、社長がどのようにしていくつもりなのかを聞かせてほしいと言った。もちろん、内間を糾弾するつもりで問うたのではない。一度は折れてしまった帆が再び立ち上がった今、自分たちの船がどこへ向かうのか知りたいという、前向きな気持ちからの質問だった。

 内間は包み隠さず、本心で答えた。

「辞めていった人たちが戻ってくれるような会社にしたい」

 内間の本音を聞いた従業員たちは、ひとり、またひとりと立ち上がると、次々に内間に握手を求めた。人のために働こうという内間の決意に皆が共感し、本当の意味での再出発が始まったのだ。自分の右手から伝わってくる、従業員たちの思いに、内間は目頭が熱くなるのを感じていた。

傷が大きいほど、気づきも大きい

 また十五年が経った。

「社長、お電話です」

 今年、新たに入社した従業員が電話の引き継ぎにくる。以前ほどのスピードではなかったが、会社は堅実に成長していた。広告の出稿依頼や新規出店の誘いも増えている。

「どこからの電話かな?」

「それが、警察と……」

 びっくりして電話を代わると、ひき逃げ事件の時効を迎えるため、手続き上、もう一度調書を取らせてほしいという要件だった。

 警察署まで出向くと、出迎えてくれた3、40代らしい刑事が開口一番、もうしわけありません、と頭を下げた。こちらが恐縮してしまうほどの対応である。

 調書を取り終えると、お茶を飲みながら少し談笑した。湯呑を持つ右手に刑事の視線を感じ、

「実は足の親指を移植したんですよ」

 と、内間は笑って言った。

「そりゃ、……すごいですね」

「なに、大工さんの世界ではそう珍しいこともないそうですよ」

「しかし、内間さんも大変だったんじゃないですか。さぞ犯人が憎いでしょう」

「決して楽な道だったとは言えませんが、犯人にはむしろ感謝しています」

 お茶を飲む刑事の動きがぴたりと止まった。信じられないという表情で顔を見つめてくる。

「強がりではなく本心で、犯人にはありがとうと言いたいです。若い頃から成功したくて働いてきた私ですが、今は金儲けではなく人儲けの気持ちで働いています。自分のためではなく、人のために働くと、こんなにも心が満たされるんだって、日々実感していますよ。もしあのとき、事故に遭っていなければ、今の幸せは手に入っていなかったでしょう。確かに私は大きな傷を負いました。ただ、傷が大きかったぶん、大きな気づきを得ることができたんです」

 ほぉーっとため息を漏らしたきり、黙って聞いている刑事に、内間はにっこりと微笑みかけた。

 後日、内間のもとに時効手続きの完了通知と一緒に、一通の手紙が届いた。

 差出人は、先日談笑した、あの刑事である。

 手紙には、「実は刑事を退職しようと思っていたが、内間の話を聞いて考えが変わった。市民の安全を守るという正義に燃えていた頃の自分を思い出し、また頑張り直すつもりだ」という内容が書かれていた。

 手紙を読み終えた内間は、まばたきを忘れて自分の話に聞き入ってくれた、あの刑事の顔を思い出していた。

「彼の中にある水がぐつぐつと煮えたぎるのも、そう遠い日ではないだろう」

 そう内間は予感し、心の中でそっとエールを送った。

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