英検2級の実力しかない私が、20年以上英語教育に携わってきた話

スポンサーリンク
英語の先生

インターナショナル幼稚園編 STORY 01

スポンサーリンク

お読みいただく前に…

これは30年以上前の話です。社会情勢や法律など、現代と大きく異なっています。今では考えられない出来事もありますが、そんな時代もあったのかと広い心でお読みいただければ幸いです。

 幼い頃からの夢「幼稚園教諭」を叶えるべく、私が初めての職場に選んだのは、開園間近のインターナショナル幼稚園でした。 
 当時稀だったインターナショナル幼稚園として踏み出したものの、なんと、その幼稚園には、幼児教育の経験者はおらず、幼児教育を専門的に学んだのは社会人1年目の私だけ。経営者としてのノウハウはあれど保育の知識に乏しい理事長のもと、日本語を理解できない外国人先生たちと繰り広げる日常は言葉にできないほど迷走したものです。
 2週間ほどの実習経験と机上で学んだ知識しかない私が、日々の保育をリードしていかなければならない状況に、どれほど悩み苦しんだかしれません。自分の健康を犠牲にするほどの努力と辛抱が必要でした。
 頑張りすぎた結果、身体に不調をきたし3年間で退職することとなるのですが、この幼稚園で働いていなければ、今の私はなかったに違いありません。涙が出るほど辛かった経験でも、この3年間で忍耐力と対応力を体得し、コミュニケーション能力が向上したのは紛れもない事実です。
 果たして私は、どんな困難をどのように乗り越えてきたのでしょうか。少し長い話になりそうですが、のんびりとおつきあい願えればと思います。

登場人物紹介はこちらをクリック

就職先はインターナショナル幼稚園! 県初の開園に取材が殺到

団塊の世代が活躍していたバブル期に就職活動

 団塊の世代が多くを占めていた1980年代、教育業界も例外ではありませんでした。公立は求人なしが当たり前。幼稚園教諭になるには、私立しか残されていません。手当たり次第に就活するもコネが優先され、なかなか就職が決まらない日々。

 周りが次々と決まっていく焦りのなか、最後に受験したのは次年度の春に開園予定のインターナショナル幼稚園。当時、インターナショナルスクールは横浜や神戸をはじめ、大都市に数園あるのみでした。求人には「幼稚園教諭」と書かれているだけで仕事の詳細もわからない状況でしたが、これでダメなら一般企業を視野に入れようと決め、就職試験に挑んだのです。

英語必須の職場なのに、採用試験に英語力は関係なし?

 20名あまりの受験者に対し採用枠は1名の狭き門。採用試験は一般教養(英語多め)と面接のみでした。学生時代は初等教育学科に在籍し、教養科目として英語を学んだだけですから、全く自信はありません。にもかからわず、一般教養と集団面接の末、なぜか最終選考まで残ったのです。

 最後の関門は田村理事長とアダム園長との個別面接。何を聞かれ何と答えたのかも覚えていませんが、その1週間後に届いたのは念願の採用通知でした。年内になんとか就職が決まり、清々しい気持ちで新年を迎えたものの、あまりにわからぬことだらけ。やっと辿り着いた幼稚園の先生という夢も、嬉しいより不安が勝っていたと記憶しています。

当初の予定と異なるクラス編成。未満児のクラスも

 採用時に聞いたのは、年少から年長までの幼児を受け入れ3クラスを運営する計画でした。しかし、年長児と年中児の多くは別の幼稚園からの転園となるせいか、定員にははるか及びませんでした。年長児の入園希望者に至ってはたった1名。結果、年中児との合同クラスとなりました。想定外の状況に、2歳児を受け入れることが決まります。当時2歳児は保育園の管轄でしたが、幼稚園の条件を満たさないインターナショナルスクールは認可外。株式会社の経営となっていたので大きな問題はありませんでした。

県内初? 開園前から取材の依頼が殺到

 研修が始まったのは2月。研修というより、4月の開園に向けての準備が主でした。教材の選定から入園予定者への連絡、教室の整理整頓、各教室の飾り付けまで、やらなければならないことが多過ぎて疲労困憊の毎日です。

 採用が決まって初めて知ったのですが、このインターナショナル幼稚園は県内初。マスコミからの注目度も高く、取材依頼も殺到していました。今でいうプレスリリースを、理事長が積極的に行っていたのだと思います。テレビやラジオ、新聞等、さまざまな依頼がありました。日本語もままならぬ先生がどのように園児を指導するのか興味があったのでしょう。どのメディアも取材の対象は外国人先生です。3月を迎えるも誰1人として外国人先生が来日していない状況ながら、取材の対応に私は時間を割かれていました。

外国人先生との顔合わせでますます募る不安

 全員が来日し、初対面が叶ったのは3月も半ばを過ぎていました。ヨーロッパの出身というラファエル先生(以下ラフィ)は、別の業界で働いていたらしく幼児教育の経験はなし。奥様は日本人ながら日本語を理解できません。アメリカ出身のエリザベス先生(以下ベス)は3年間、母国で幼稚園教諭を経験していたものの、日本語は全く話せず。残る1名はアフリカ出身のアントニオ先生(以下トニー)。指導実績はあるというものの幼児教育は未経験です。日本に留学していたらしく、日常会話ぐらいはできるとのことでした。

 自分の英語力に自信がないなか、外国人先生の経歴を聞けば不安は増すばかり。一緒に保育をするとなると、日々の細かなコミュニケーションが欠かせません。お互いの意思疎通を図る共通言語がないことに驚愕したのを覚えています。その後ようやくクラス編成と各先生の役割が発表されました。ラフィーは4・5歳児、トニーは3歳児、ベスは2歳児の担任。唯一の日本人教諭である私は全クラスの副担任と事務職を兼任です。この時点で私の頭はパニック。3クラスをフォローしながら事務作業なんて無理だと、辞退を考えたのも一度や二度ではありません。

入園式を迎えるまでの多忙すぎる毎日

 顔合わせは終わったものの、外国人先生の出勤は3月末からです。それまでの準備は理事長夫人の百合さんと私の2人でこなすしかありませんでした。園バスの運転手坂田さんも助っ人に手をあげてくれたものの、何を頼めばいいのやら…。入園準備となるとほとんどが手作りで、経験のない中年男性にできるとは思えません。入園者名簿や式次第の作成、配布物の準備、教室や靴箱のネーム貼り、ホールや玄関の飾りつけなど、数えればきりがありません。テーブルに子どもの名前を貼ったり、教室を可愛くデコレーションしたりという細かな作業はお願いできず、1人で作業することになりました。

 たまに外国人先生が園に現れても、眺めるだけで手伝ってくれず、あちこち見回しては「Wow!」と言うばかり。保育が始まるまでにカリキュラムを共有し、指導の詳細やクラス業務の分担など、決めなければならないことは山積みなのに、入園式の準備で手一杯です。しかも外国人先生は我関せず。このままで大丈夫なのかと、入園式前日の不安や緊張は言葉にできるものではありませんでした。

続く

公開中のストーリーはこちら

「英検2級の実力しかない私が、20年以上英語教育に携わってきた話」は主人公である高山杏の体験をもとにしたフィクションです。実在の人物、設定は架空のものです。

タイトルとURLをコピーしました