理事長との交渉は団体でなければ撃沈する

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英語の先生

体調を壊した杏にドクターストップがかかる・・・

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【インターナショナル幼稚園編 STORY 10】

お読みいただく前に…

これは30年以上前の話です。社会情勢や法律など、現代と大きく異なっています。今では考えられない出来事もありますが、そんな時代もあったのかと広い心でご覧いただければ幸いです。

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保護者と園児の期待にそえず、決心したこととは

体力の限界? 気力だけで仕事を続けられるのか

 主治医の言葉でこれまでの生活を見直すことにしました。多忙さに慣れたせいか、勤務時間に疑問を感じていませんでしたが、改めてオーバーワークだったことに気づきます。平日の大半は6時半から21時まで、行事前や月末は23時過ぎても仕事をしていました。土曜日の保育がなくなってからも、毎週土曜日は半日出勤です。長期休暇中も、1週間程度の休みしかありません。友人に誘われても、出かける元気すら残っていませんでした。園で働く限り、きっとこの生活は変わらない。働きすぎを回避するには辞めるしかない。わかっていながらも、園児のことを考えるとなかなか決心がつきません。保護者から頼りにされているという自負も、辞められないという気持ちに拍車をかけていました。初年度最年少だった2歳児の卒園を見届けたい、それまでは頑張りたいと考えていたのです。

時間割を無視。監視の目を怖れず、泥んこ遊びをすることに。

 体の不調とは裏腹にどの教室でも園児たちと楽しい時間を過ごしていました。理事長の監視も気になりません。しかしランチタイム後の園児の不機嫌さには手を焼きました。家にいるなら午睡しているはずの時間にもかかわらず、午後1番のスケジュールはフラッシュカードでした。退屈過ぎて、大人でも眠くならないのはおかしいくらいです。時間割に従うべきだとわかっていても、園児たちが不憫だと思ってしまうのです。

 私が行動を起こしたのは、7月後半の午後でした。真夏の暑さもあり、年少児クラスのほとんどが疲れきっている様子。半分以上まぶたが下がっている園児を前に、私は考えました。そして時間割を無視し、泥んこ遊びで目を覚まそうと決めたのです。理事長からの呼び出しは確実でしょう。それが怖くて、今までは実行に移すことができなかったのですが、なぜかその日はできるような気がしたのです。

 靴下と体操服を脱がせ、全員が肌着と半ズボン姿で砂場へ行きます。そこに少しずつ水を入れました。思った通り、園児は大はしゃぎ。眠そうな子はもう1人もいません。理事長が賑やかな笑い声に気づくまでに時間はかかりませんでした。外国人先生も一緒に外にいましたが、園児から目を離すわけにはいかず、理事長の呼び出しに聞こえぬふりを貫きました。そこに怒りを顕にした理事長の登場です。

怒り心頭の理事長と開き直った私。腹を割って話し合う

 何を言われても屈さないと決めていた私。「園児のいる前での叱責はやめてください」と伝え、園児の足を洗います。「園児が降園したら、すぐ職員室に来るように」と告げた理事長は足早にその場を去りました。園児は久しぶりに楽しい午後を過ごせてご満悦な様子。元気よく降園していきましたが、私には理事長の説教が待っています。今回は短時間で済まないでしょう。この際、気持ちを包み隠さず話そうと意を決し、職員室に向かいました。ここから長い話し合いが始まります。

 日々の保育に携わっているのは保育者です。理事長はモニターを通じて大まかな保育風景を見ているだけで、その場の状況まで把握していません。理解できるとは思えなかったのです。どれほど細かに説明しても理事長には通じないと、普段ならここで諦めていたかも知れません。でも体調不良により、退職も視野に入れていた時の出来事。戦う覚悟を決めたのです。

 園児の気持ちは刻一刻と変わる。園児の様子に応じて臨機応変な対応が必要。5分単位で区切られたスケジュールを寸分違わず進めるのは不可能。できると思うなら理事長自身が手本を示すべき。などと思いの丈をぶつけました。かなり時間をかけて伝えたつもりですが、結果は予想通り。最後は「思うように保育をしたいなら、自分で幼稚園を作りなさいよ」と突き放されました。

意を決して退職を申し出た私に、理事長は驚愕の一言を放つ

 主治医から退職を勧められても、我が身を顧みず頑張っていた私ですが、さすがにこの話し合いで身も心も疲れ果ててしまいました。もう退職しか選択肢はありません。年度末で辞めることを決め、2学期開始早々に理事長に退職の意を伝えました。そこで返ってきたのは驚愕の一言。「望みは昇給か肩書きか。どれだけ給料を払えば続けられるのか」。

 保育の環境を良くしたいという思いだけで骨身を削って働いてきたのに、理事長に私の思いは伝わっていなかったのです。もはや怒りを通り越し、絶望の涙が溢れてきました。給料は当時の最低賃金。時間外手当も社会保険もありません。保険や年金を自腹で払えば、手元に残るお金は9万円足らずでした。周りから失笑を買うような安い給料でも文句を言わなかったのは、お金のために働いていたのではなかったからです。長年の夢だった幼稚園の先生として働けることが嬉しかったから。そんな私の思いが全く通じていなかった理事長の言葉を、どうしても許すことはできません。「お金が欲しかったのなら、とっくの昔に辞めていました。もっと高い給料をもらえる職場は掃いて捨てるほどありますから。年度末で退職すると決めたので、もうお話しすることはありません」と言い残し、私は職員室を後にしました。

長かったようで短かった3年間。後ろ髪を引かれながら涙のお別れ

 残された時間はわずか。園児のことを考えると心残りはありましたが、退職する気持ちは揺らぎませんでした。園児と保護者のために持てる力を出し尽くそうと、それまで以上に奮闘したものです。後に残る先生が困らないようにと、細かなマニュアルを作成。例年大変な運動会の準備も音を上げず、有終の美を飾ることができました。

 3学期が始まって間もなく、私の退職を知らせる園便りが配布されました。当時は個人情報の管理に規制がなく、保護者に職員名簿を配るのは当たり前。自宅の住所も電話番号も周知されていました。その日から自宅の電話が鳴りやみません。多い日は5件以上。そのすべてが「辞めないでほしい」という保護者からの電話でした。「先生が辞めるなら子どもも退園させる」という言葉にはかなり心が動きました。ここまで必要としてくれる保護者に背く必要があるのだろうか。まだ頑張れるかも知れないと思いながら「ごめんなさい」と繰り返していたのです。

 いよいよ3学期の終了式。私の退職日でもあります。笑顔で終わりたいと思っていたので、いつも以上に淡々と過ごしていました。降園時間になると、続々と保護者がお迎えにきます。私の元で泣き出すママを見た瞬間から、涙が止まらなくなりました。あいさつを済ませ、とうとうお別れの時です。「ありがとう」と言いながらハグをして、最後の1人が見えなくなるまで、手を振っていたことを覚えています。

 笑顔をくれた園児、優しい言葉で激励してくれた保護者、仲良く助け合えるようになっていた先生たち、陰に日向に支えてくれた運転手さん。多くの人に助けられた3年間はこの日で幕を閉じました。

おわりに

 私が社会人の第一歩を踏み出したのは1980年代後半。

まだ社会ではワープロが主流で、家庭用のパソコンは普及していませんでした。もちろんインターネットもありません。携帯電話はショルダーバックのサイズです。

 自力で解決できない教育のことは、周囲に相談するか専門書を読むくらい。英語の教材を購入するのも個人輸入しかなく、見よう見まねで教材のほとんどを手作りしたものでした。

 80年代を振り返ると、令和の時代は随分便利になったと実感します。インターネットを活用すれば、同じ悩みを持つ人ともすぐにつながることができます。保育や英語教育のヒントもあちこちで見つかりますよね。当時このようなシステムがあったら、少しはラクに仕事をできたかもしれません。

 皆さんには、昔の私のように1人で悩みを抱え込まないでほしいと思います。特にそれは、若い人に言いたい。1人の悩みや不安は、その教育機関の課題でもあるのです。共有することで、課題は解決に向かい、結果として働きやすい職場、いい教育機関のメソッドに生まれ変わるからです。それに、楽しく働くためにも必要ですね。「仕事を楽しむ」これに勝る働き方はないのですから。

 最初のインターナショナル幼稚園で働いた経験がなければ現在の私はありません。困難や苦労が多かったからこそ、仕事と真摯に向き合う覚悟が定まったのだと思います。私の礎を築く貴重な体験をさせていただいたと感謝こそすれ、今も後悔はありません。

 これで、私のライフストーリーは完結したわけではありません。このままだと、さすがにネガティブな終わり方ですからね。この経験をバネにして、アメリカひとり旅、商社勤務と続き、再びインターナショナルスクールに勤めることになります。そして、そこで出会ったママと英語スクールを立ち上げることになってゆきます。

原稿アップは先になりますが、引き続きよろしくお願いします。

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ほいく畑

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